「道徳の教科化をどうみるか~近代社会のうちなる監視制度の完成として~」

今月7日、東京・生活者ネットワーク主催の学習会に参加しました。講師は中央大学文学部教授の池田賢市さんです。

小学校は昨年度から、中学校は今年度から道徳が教科化され、「特別の教科 道徳」として授業が始まっています。
道徳が教科化されることに対し、多くの市民から危険性を訴える声があがりました。

 

今回の学習会は市民セクター政策機構が発行している季刊「社会運動」4月号の『「特集:学校がゆがめる子どもの心ー「道徳」教科化の問題点』に掲載されている『道徳教育の歴史と「教科化」の危うさ』という池田さんの投稿をきっかけに、ぜひ池田さんのお話を伺いたいということで開催されました。

池田さんは「相互監視システムあるいは学校教育について子ども(人々)の心の中の監視制度として道徳の教科化を見た方が良いのではないか。」ということで、これを中心に学習会が進められました。
以下お話の一部を紹介します。

◆原則論として教科化は不可能ではないか
道徳は人間社会において必要なものではあるが、教育の対象とすることはどうなのか。
道徳的判断は具体的な生活の中、人間関係の中で自然に学ばれていくもの。道徳性はその場その場で1回1回違うので抽象化できないが、学校で教科にするためには抽象化できないと教科にならないし教科書に書けないしカリキュラムが組めない。

算数は生活の中から生れた法則を学ぶことで学んだ人が各自応用できる。
たとえば2×3の何が2で何が3なのかは人によって違う。
でも道徳はたとえば「やさしさ」とか「勇気」を抽象化して伝えようとすると、とても陳腐なものになってしまう。
抽象化し得ないので教科書に書きようがない。だから読み物教材しかあり得ない。カリキュラムを組むことも難しい。

しかしその読み物教材も、子どもたちが普通に読んでしまうととてもまずいことになるのではないかという文章もある。
たとえば障がい者について書かれた教材も社会的な問題として考えるのではなく、親切・思いやりで解決しようとする項目に入っている。
これを人権の観点からどうやって読み替えていくか、子ども達に問いかけをしていくかが重要であり、道徳教材を学校レベルで教材化し直すことが必要。これはぜひ教育委員会で話し合ってほしい。
道徳の授業をきちんと人権の観点から授業として展開していくためにはあらかじめ読ませない方が効果的である、ということで、教科書を持ち帰らせないで授業の時だけ使う学校もある。
道徳の教科化が始まってしまっている以上、教員の教育の自由、アレンジ力(りょく)を保障する教育政策がとても重要。一方でそもそも道徳が教科になることの原則論を確認することも必要。

◆若者の変化
大学生や若い教員の様子がここ10年から15年変わってきていることを実感している。会話の中で「憲法を言うと偏っている教員と思われるのではないか」「教員は公務員だから選挙に行ってはいけない」など、政治的なことはやってはいけないと思っている。
また、社会的な問題なのに「どうしてそうなのか」という問いが立たず、「変わらない」「仕方ない」と自己責任の発想が強く、心の状態のありようで解決してしまおうとする若者が増えている。
ここ10年の話で今の大学生が小学生のあたりからそのような教育を受けている傾向にあることから、それをますます押しすすめるのが道徳の教科化ではないか。

◆教科化の問題は評価
教科化されることで評価も必ずしなければならない。数字ではなく記述式で人と比較せず個人内評価とされている。
文科省は子どもの心の変化を見取ってそれを評価しろと言っている が、たとえば「やさしさ」について、どういう心の変化がやさしさなのか評価できない。
評価の視点は
①一面的な見方から多面的な見方に変わったかどうか
②学んだ価値を自分自身との関わりの中で考えているかどうか

①について、子どもはもともと多面的なのに一面化しようとしている。
読み物教材もあくまで材料であり、みんなで話し合えばよくて一定の考えや行動を求めるものではない。しかし子どもたちは教科書に書いてあることが正しいと思ってしまう。
色々な価値感を持った人がぶつかり合うことが大事。
②どうやって外側からわかるのか。評価する材料が授業中の発言やワークシートに書かれた内容であり、そこから教員が想像するため、結局国語力のある子どもが有利になる。公平性に欠けるのではないか。
内面の状況を他人がみてその変化を記録しようとするのは難しい。

◆道徳の教科化は公権力による心の中の監視制度
子どもが心の中を公務員である教員にのぞかれる。
人の内心のあり方を公権力が問題視してよい。

これを問題とは思わずに当たり前になって大人になり教員が育っていくことは大きな問題。

道徳の教材は「心の状態への公的監視制度の完成である。」と見た方がいい。一方でそれをわかった上で道徳の授業をどうやろうか原理原則論でやっていくしかない。
そして道徳の授業が一定の行動の統制にならないようにしていくことが必要であり、道徳の授業をチェックしていく上で重要。

道徳が教科として教科書を用いたり、評価があることに問題があることは、私も一般質問や委員会でも指摘してきました。
既に始まっている「特別の教科 道徳」ですが、その危うさをあらためて確認しました。
「心の中を監視され評価される」ことが当たり前にならないよう危険性を訴えていきます。